剣道は修行次第で老人でも若者に負けない?(3)

老齢になっても本当に若者に勝てるの?という疑問への考察(4)

さて、今回は、また近代に戻って、その老齢期の70~80代においても強かったという持田盛二先生を今回のテーマに従って、晩年の逸話を中心に紹介したいと思います。

持田盛二先生顔写真

出典: ウィキペディア

この方こそ、「剣道は修行次第で老人でも若者に負けない?」の第一回目で中山博道先生が語ったことを証明していたかのように思います。

89歳で亡くなっていますが、80歳を過ぎても稽古を続け、現役選手を寄せ付けなかったといわれており、先生が80歳のときに初めて稽古した舩坂弘(剣道教士六段)は、自著『昭和の剣聖・持田盛二』において「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた…」と述べ、太刀打ちできなかったと証言しています。

 

最年少範士、初の剣道十段

なんとこの方は、昭和二年には、剣道家として最高の称号である「範士」を四十三歳という最年少で授与されていれていますが、最も世間の関心を集めたのは、1929年(昭和4年)の天覧武道大会に出場した時のこと。

有名な剣豪を次々と打ち破り、決勝では優勝候補筆頭だった剣聖と謳われる高野佐三郎の養子であり、高野道場の四天王の第一と称されていた高野茂義を破り、優勝したことでこの方の名声は全国に響き渡りました。

その後、中央に迎えられ、後に講談社の野間道場、警視庁、皇宮警察、陸軍戸山学校、学習院中等科・高等科、慶應義塾大学、第一高等学校などの師範を務められています。

後に警視庁から名誉師範の称号を授与され、1957年(昭和32年)には、全日本剣道連盟から、今では名誉称号としてのみでなくなっていますが、最高位である剣道十段を授与されています。これは、先人さえ貰わなかった段位は受け取れないとして固辞していのですが、連盟側がどうしてもと懇望したことにより受領したそうです。

 

その高潔な人柄

先述の天覧武道大会で優勝した時も、負けた相手を気遣い、記新聞記者や雑誌記者の追尾を巧みに避けて、早々に立ち去ったそうで、また、ご高名ながら生涯富や名声を追うことなく剣の道を歩まれ、生活は質素で、生涯を借家で暮らしたと言います。

このように温厚、高潔な人柄で知られ、目下の者や講談社の少年部社員に対しても「さん」付けで呼び丁寧に応対し、強さと気品を兼ね備えていることから、「昭和の剣聖」と称されました。

座右の銘は「剣徳正世(よんとくよをただす)」。意味は剣の徳をもって世を正すこと。

 

達人の遺訓

さてこの達人の残された貴重な言葉が以下です。

• 私は剣道の基礎を体で覚えるのに五十年かかった。

• 私の剣道は五十を過ぎてから本当の修行に入った。心で剣道しようとしたからである。

• 六十歳になると足腰が弱くなる。この弱さを補うのは心である。心を働かして弱点を強くするように努めた。

• 七十歳になると身体全体が弱くなる。こんどは心を動かさない修行をした。心が動かなくなれば、相手の心がこちらの鏡に映ってくる。心を静かに動かされないよう努めた。

• 八十歳になると心は動かなくなった。だが時々雑念が入る。心の中に雑念を入れないように修行している。

60歳頃の映像

これは1940年(昭和15年) -天覧武道大会で、特別に選出された選手同士による模範試合である特選試合に出場した時の映像と思われます。この時すでに60歳という高齢です。

名人同士の対決のため、間合いの攻防の末、最後持田氏が電光石火の面を決めるシーンをお見逃しなく!

70~79歳の頃の映像

では、以前も別の記事で紹介しましたが、70代という高齢に達しながらも強さを堅持したその時の映像を見てみましょう。

今でも高齢の達人はいるのか?

本業の仕事で心身ともに疲弊している現代の日本では非常に困難かもしれませんが、老齢に達しても若者に勝つことは不可能じゃないということはおわかりになったかと思います。

では、今の60代以上の人で、今でも若者に勝てそうな老齢の方は果たしていらっしゃるのでしょうか?

さ来月の6月5日には、武道館で高齢者大会があるので、もし時間が確保できたらぜひ見に行ってきたいと思います。

この大会はこの大会は段位に関係なく、男性55歳、女性50歳以上になれば参加資格があるそうです。

みなさんもぜひぜひご都合のつく方は足を運んでみてください!

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