高野 佐三郎 Vol.1

高野

「伝説の剣豪」シリーズ、ついに始動!
まずは現代剣道の礎を築いてくださった高野 佐三郎先生より。

 

プロフィール

日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。

警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任。

現代の剣豪」と称され、また「大御所」「大高野」と呼ばれるなど、あまねく剣道人から尊敬され、慕われた。

昭和の剣聖の一人であり、現代剣道形を制定する中心的役割を果たした昭和初期剣道界の第一人者である。

高野佐三郎

出典:昭和ガイド

この方は、知る人ぞ知るまさに現代剣道の基礎を作った中心人物なのだが、それ以前にまさに「剣道の申し子」と言っても過言ではない人生を歩んでいる。

まず何しろその生い立ちからして伝奇小説のよう・・。

では彼の生まれてから亡くなるまで、その成長を追いながら、様々なエピソードをご紹介。

幼年期

佐三郎の祖父である佐吉郎(苗正)という人は、中西派一刀流4世・中西子正の高弟で、忍藩主家・奥平松平家の陣屋の剣術指南役を務めるとともに、秩父神社境内にも道場を設け、門人を指南していたほど剣の道に生きた人だった。

孫ができたのがよほどうれしかったらしく、なんと母親の胎内にいる時から佐三郎に道場で竹刀の音を聞かせたという。

さらに生まれて耳が聞こえるようになったら、今度はまだ理解もできないのにもう歴史上の英雄・豪傑の伝記を読み聞かせた。

これはもう生まれる前から剣道家としてなるべくしてなったとしかいいようがない。

本人は、言葉が理解できるようになった頃、今でも覚えているのは源義経の物語で彼のようになりたいと強く思ったそうだが、この時のことは後に強く彼の人生に影響を与えたのではないだろうか。

3歳からもう中西派一刀流の形稽古をつけられ、物心付く前に中西派一刀流の組太刀56本を覚え、5歳のとき、藩主・松平忠誠の御前で佐吉郎を相手に中西派一刀流組太刀56本を演武した。

その時藩主は佐三郎を激賞し、「奇童(いわば神童)」の二字を書き添えて脇差と銀一封を与えた。

後年において本人いわく、菓子をえさにされたからがんばって覚えたそうだが幼少の頃から並の子ではなかったのは確かだろう。

少年期

明治維新後も高野家ではきびしい稽古が続けられ、祖父の佐吉郎は佐三郎に、道場の床に大豆を撒き草履を履かせての稽古や、膝まで水深のある川での稽古、布で目隠しをしての闇試合、早暁の太陽を飲む神法など、さまざまな特訓を課した。

そのため、10才にしてすでに15~16歳の世代に負け知らずとなっていた。

祖父の佐吉郎にきびしく鍛え上げられた

ますます自分から進んで稽古するようになり、秩父地方の剣術大会で佐三郎の名は轟き、ついには「秩父の小天狗」との異名をとるほどに。

ここまで見ると現代ではこれを英才教育と呼ぶのかもしれない。

さすがに時代がかっていて、後に彼のこのような逸話が映画や小説などの題材に使われたのもうなずける。

そういや村上もとか先生の昔の剣道漫画「エーイ!剣道」や「六三四の剣」にも川に入っての稽古や闇稽古などのシーンが出てくるのだが、高野 佐三郎先生のこういった逸話から端を発しているのかもしれない。

 

青年期

佐三郎が誰にも恐れないで試合をしたという血気盛んな17、18才頃の話がまた面白い。

明治12年(1879年)、場所は埼玉県秩父神社の境内。権現の奉納試合として「上武合体剣術大会」が開かれたのだが、当時、各藩の剣客は競ってこの試合に集まり非常に盛んなものだった。

佐三郎は具合の悪くなった佐吉郎の代理で出場した時のこと。

対戦相手は高崎藩で有名な竹刀で厚い板をも突き貫くほど強烈な突き技の持ち主で「鬼岡田」と呼ばれたほどの男がいた。

元安中藩撃剣取締役助教授で名を岡田定五郎(30歳)という。

その頃佐三郎は右片手上段が最も得意で誰とでも片手上段で戦っていた。

上段という構えは敵を眼下に見下すので、年輩の上の者、上位の人には礼を失するため、本来なら上段を執るなら礼をして、「御無礼」とか「失礼します」とか言ってから執るのが当たり前の時代。

しかし、その時の佐三郎はそういう事にも構わず三、四本と激しく打ち込んだ。

それに怒った岡田は、いくら撃ってもまいったと言わず、逆に先を鋭くしてきた竹刀で胴から喉笛まで裂く様に何度も強烈な突きをはなってきた。

ついには佐三郎の喉から白袴に血がしたたり落ちるまで、いくら打ち返してもかまわず突いてきたというからすさまじい。

見物客はまだ歳若いはるか年下の佐三郎に同情し、皆総立ちになって引き分けにしようとしたそうな。

しかし佐三郎はお返しに岡田の目を潰してやろうと先が折れてバラバラになった竹刀で顔面を突いたが、面金に当たるだけで届かず、見かねた審判が引き分けると、その場に卒倒してしまった。

この惨敗があまりに悔しかったのだろうか。佐三郎は修行を積んで復讐するまでは帰らぬ!と書き置きをおいて故郷を出て即上京。

東京にて荒行するならと山岡鉄舟の道場を紹介してもらい、そこで三か月ほど修行を積むことになる。

山岡鉄舟と言えば幕末の時代、明治維新の歴史を語る書物やテレビ番組の中でも登場するほど有名な人物である。

田舎から修行にきた先生でも三か月ともたないと言われる山岡道場で二か月過ぎてもただならぬ様相で稽古を続ける若者を不思議に思った鉄舟は佐三郎を昼食に誘い、次第によっては力添えをすると伝えると、佐三郎は涙ながらにその経緯を話した。

鉄舟は「もはや岡田とやらは君の敵ではあるまい。さっそく復讐して来い。万一敗れたらまた来い。」と言ったという。

佐三郎は、負ければ死ぬ覚悟で岡田を訪ね、試合を申し込むと、岡田は平身低頭して詫び、丁重に試合を断った。

埒が明かないため佐三郎は帰り、鉄舟に報告すると、鉄舟は「それは当然だ。やれば岡田は生命は無かったろう」と語り、佐三郎は鉄舟から一層気に入られ、その後もしばらく山岡道場に居続け、二人は親交を深めた。

 

警察時代

明治17年、祖父の佐吉郎が亡くなったため、帰郷して秩父明信館を継いで23歳ですでに若先生と呼ばれていた。そこでぞくぞくと集まる入門者に熱心に稽古をつけていたのだが、明治19年に山岡鉄舟に呼ばれ、警視庁で武術世話係の職を斡旋された。

警視庁武術世話係というのは、明治時代の警視庁に設けられた警察官に剣術、柔術、捕手術を指導する係のことで、現在の剣道、柔道、逮捕術の師範等に相当する。

警視庁へは毎日のように全国から他流試合を申し込んでくるものがあるから、それらを撃退するだけの腕のある男を入れたいという警視総監からの依頼とのことで、その話に魅力を感じた佐三郎は有難い話として引き受けた。

資格は平の巡査だが、月給は通常の倍以上という異例の待遇であったという。

当時の警視庁は、幕末の動乱をくぐりぬけてきた元武士、抜刀隊士や、各地から招聘された剣豪が集まり、剣術家最大の拠点となっていた。

猛者たちがしのぎを削った警察道場

佐三郎はそこで幕末の生き残りである上田馬之助逸見宗助梶川義正らの指導を受けたそうだが、特に上田馬之助などは時代劇の中で一度はその名を聞いたことがあるという人もいるだろう。

なんとこの男、竹刀による突きで板をぶち抜くほどの剛剣を誇った人物

こうした背景には明治十年の西南戦争において「警視庁抜刀隊」が大いに奮戦し、剣術の真価が見直されたという点がある。そのため日本における剣術の大家がつぎつぎと集まり、剣術の大本山というべく、剣を志す者は「警視庁剣術」に触れなければお話にならない!ということになっていった。

当時、警察に方面会というものがあってそこで三本勝負、五本勝負をしても負け知らずの佐三郎、高橋赳太郎川崎善三郎の三人を合わせて「三郎三傑」と謳われた。

その頃の稽古は、血の小便が1週間止まらないほど非常に激しく、佐三郎本人によると夜の六時から朝の六時まで続けられた立ち切り稽古が特に辛かったという。

この話は現代っ子にはにわかに信じがたいものがあるのだが、なんと山岡鉄舟の道場では門人80人と24時間昼夜やったとか・・。

山岡道場はへとへとになるまで打ち込み、稽古場で四つん這いになるまでやるのが流儀だったというから、昔は本当に無茶苦茶で死んでもおかしくないぐらいきびしかった。

その後、明治21年(1888年)7月、恩師・山岡鉄舟が死去し、8月、佐三郎は埼玉県知事の要請で警視庁を退職して埼玉県に帰郷し、埼玉県警察本部傭員となった。

 

明信館の設立

佐三郎は帰郷しほどなく、明治23年(1890年)、浦和に「浦和明信館」(後の「修道学院」)と称する道場を開いた。

以後埼玉県警察部に勤務しながら巡査教習所武術授業係りとして指導を続け、いつしか明信館の名は次第に高まり、千葉、茨城、栃木、山梨、神奈川、東京、北海道に支部を設立。

防具で練習

映画や小説を見た多くの若者が明信館に入門

 

このとき読売新聞に「其門に遊ぶ子弟無慮四千余人、道場を起こすこと三十九の多きに及び…」と報道されたが、39支部というのは、明治時代の剣道道場の支部数としては異例の多さで、この頃、佐三郎の半生は村松梢風により『秩父水滸伝』として小説化され、その後映画にもなり、この映画を見た多くの若者が明信館に入門した結果、館員数は6千余人、警察官や学生を加えると1万人を超えたという。

そして・・

続きはまた後日!

お楽しみに!

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